「 田沼意次の江戸大改革 」

悪徳政治家として語られがちな江戸幕府老中、田沼意次
(たぬまおきつぐ)の紹介をさせていただきます。

実は大奥でも話題のイケメン官僚だったとか。
田沼は、享保の改革で「倹約疲れ」を起こしていた社会の
暗いムードの中、大胆な経済政策を打ち出し世の中を
明るく一新させました。
田沼の歴史的評価もここ20年くらいの歴史研究で再評価
され、悪徳政治家とは敵の陰謀であって、実は江戸大改革
を行ったスーパー官僚であったと評価が高まっています。

成長の時代をもたらした、その政策は、鎖国の見直しや
通貨の統一など、明治政府の近代化政策を100年以上
前に行っていました。
敵の恨みをかって失脚した田沼意次でしたが、
「思い込みを捨てて優先順位を変える」や「全員と会え」
など斬新な改革の極意がありました。
極意につきましては、後ほど内容を紹介いたします。
また、田沼後の松平定信の政治を批判した
「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
という有名な歌があり、世の中からの支持が伺えます。

田沼意次(1719?1788)は、下級武士出身ながら老中
まで異例の出世を果たしました。
江戸時代8代将軍徳川吉宗の享保の改革が失速した直後、
幕府財政は窮乏し、農民一揆が多発していた暗い時代に
奇抜な経済政策で暗いムードを一掃しました。
その結果、庶民も元気が回復し商業が活発化、浮世絵や
相撲興行などクールジャパンの原点となる文化が誕生した
と言われています。
これまで賄賂を横行させてきた悪徳政治家と思われてきた
田沼でしたが、その実像は如何に。

(1)経歴
田沼家が仕えたのは紀州藩(和歌山)で下級武士の家柄、
享保元年、徳川吉宗が8代将軍に就任すると父意介が
江戸に同行し、享保4年(1719)意次は江戸で生まれました。
16歳で吉宗の子、家重の小姓(身の回りの世話をする係)と
なり家重から頼りにされ、家重が9代将軍になるとそれに伴い
御用取次に抜擢され、旗本から大名へと昇進しました。
10代将軍家治の時、安永元年(1772)老中となり、石高
も600石から5万7000石(資産価値34億円の領地)と
なりました。

(2)改革の極意
<知恵その1>「思い込みを捨て優先順位を見直せ!」
財政の全面的見直しを行ったところ、赤字の増加が大問題
でした。
この時代の税収の優先順位は、何と言っても米、次がその他
のものであり徳川吉宗は、米の増税と新田開発を行い、始め
は効果が出たものの頭打ちの状態となり、天領で一揆が続発
していました。
打つ手なしかという状況下、ある情報が田沼に飛び込んで
きました。
町では、芸者遊び、美酒・美食・・・、なぜこんなに羽振り
がよいのか!?
江戸の町は、幕府初期の300町から田沼時代1600町と
なっており、商業が急成長していました。
そこで、
? 税収の優先順位を米本位から商業優先へ
 株仲間を公認し商人に商売を独占させ運上・冥加金
 いわゆる営業税を課し税収アップを図りました。
? もう一つの問題であった外国貿易の収入激減対策
 外国貿易の主流は金銀でありましたが国内産の金銀が枯渇
 していたところ、他国では俵物(干しアワビなど)を
 輸出していました。
 輸出の優先順位として、俵物の増産を全国に呼び掛け、
 貿易収入の上向きを図りました。
? 最上のタブーである「貨幣システムの変更」に挑戦
 これまで江戸は金貨、大阪は銀貨が中心で経済が回っており、
 一つの国で別々の通貨が流通していたため、両替が必要で
 ありました。
 田沼は、『南鐐二朱銀』を作り、銀貨8枚で金貨1両と交換
 でき、レートを固定しました。
 
その結果、国内経済は活況となり幕府財政は上向き、国が潤う
ことで大衆文化も発達しました。
「常識を疑い優先順位を変えていく」ことで活力を呼び込み
暗いムードを明るく変えていきました。

<知恵その2>「全員と会え!」
面会希望者を断らないことを旨としていました。
・平賀源内:幕府の新たな鉱山開発の提案
・田村藍水:朝鮮人参を国内栽培し、幕府で独占販売
・その他:綿羊の飼育や関東で白砂糖生産など国内産業
の立上げを行いました。
さらに売り込みも断らず民間の発想をドンドンと吸い上げました。
田沼意次の遺言に「たとえ相手の身分格式の低い家の人で
あっても人情をかけ差別なく付き合うべきである」
というものがあったそうです。


まとめ
 ?小さな改革を積み重ねた
 ?まわりの意見をよく聞いた
 ?時に驚きをもった変革を行った
今で言うところのイノベーションとチームワーク、そしてサプライズ。
以上、れきし居酒屋 『NHK知恵泉(ちえいず)』 より。
 
皆さんの仕事や生活での問題解決のヒントになりますでしょうか。
終わります。 管理本部s